2010年04月17日
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それは建物の話だった・世田谷区役所の建物の話だった

Written By: 川俣 晶連絡先

 実は、前回紹介した世田谷区役所の文章は全く読めていなかったことが分かりました。きむらたかし@三田用水さんが言葉を補ってくれてやっと分かりました。

区役所は若林町六二三番地にあり昭和三年八万余円の工費と約一ケ年の日数を経て建築されたもの。木筋コンクリ-ト洋式二階建、総延坪四七一坪のものである。区役所の吏員総数、町長以下百六十名であつた。これを、大正元年頃、現在の区役所前、荏原小学校(現若林小学校)の横に麦藁屋根の世田谷村役場、七八名の吏員によつてなされだる村行政と対此して考うる時、転だ感慨禁じえぬものがあつた

(「世田谷区史 下巻」東京都世田谷区役所昭和26年3月20日刊より)

 つまり、どういうことかというと。

 これは全て建物の話であり、世田谷区成立前、世田谷町、世田谷村の話です。世田谷区は直接関係ありません。そういう建物を区役所にしたというだけの話です。

しかし懸念が残る §

 文章が上手く読めなかった理由はいくつかあります。

 その1つが、前提の取り違いです。

  • 私の認識 → 複数の地域が併合して区が成立したので、既存の庁舎に入るとしても基本的に他人の建物に入ることが前提 (たまたま同じ建物の職員が引き継いだ場合は例外的に違うだろうが、区史のような文書の前提にならない)
  • 著者の認識 → 村→町→区という直線的な拡大発展史観である。だから区史で村役場を我がことのように感慨を持って回想できる

 このような「直線的な拡大発展史観」は帝国主義的であり、昭和26年という時代背景を考えれば、「大日本帝国臣民」としての教育を受けた必然的な発想かも知れません。先進的な地域が、後進的な地域を吸収合併してより大きくなるという思想性は、大日本帝国そのものが体現していたものです。

 しかし、これは勝者の史観であり、必ずしも敗者が好感を持って支配を受け入れているわけでもありません。

 実際、日本による被占領経験の評価には地域によってかなりの温度差があるし、世田谷にも玉川区独立運動のような火種がくすぶっています。国やGHQをバックにした都が境界線を確定してしまったからやむを得ず境界線を受け入れていて、今はもう具体的な独立運動はないようですが、漠然とした不満はかなり残っていそう。嘘か本当か庁舎合同で宴会をやるときはどこからも便利な渋谷か新宿で、という話は杉並区としても他人事では無いのかも。区内で簡単に集まれないねじれが確かにありそうです。

 とはいえ、神田川北岸地域の高井戸町は杉並町とおそらく連続した近い存在であり、明瞭な高井戸区独立運動はあまり見られないのに対して、玉川区独立運動はあったと区史に書かれるぐらいで、そのあたりの温度差はありそうです。

という話は予測されたものではない §

 いや。区史の本はいくつかあって最初に手に取ったのがたまたま昭和26年のだったという話です。手に取る前に年代も分かりません。

 そこで、区役所が若林にあった記述があり、証拠確認は十分と見なしてページのコピーだけ取って帰ってきました。単に若林という記述があるだけで満足してそれ以上は熱心に読まずに帰ってきました。まさか、こういう話にまで発展するとは。

余談 §

 そういえば、井上ひさしさんの吉里吉里人は国家としての独立志向を持つ小さい地域の話だったような。そういう話が区レベルで起きていたのが玉川区独立運動なのかな。ニュアンスは良く分かりませんが、「あんな場所に区役所があるのは不便すぎる」という気持ちは推測できます。世田谷線の沿線以外に住んでいる人は、必ず小さな世田谷線に乗り換えて若林で信号待ちする電車にガタンゴトンと揺られないとならないわけです。偶然、世田谷線沿線の下高井戸に住んでいる私の方がはるかに便利という逆説もあります。

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